人生の意味の感情主義
researchmap ↗このたび、〈人生の意味の感情主義〉という研究テーマでANRI人文奨学金に採択いただいた。これは「人生の意味についての研究に投資する一定の価値がある」、言い換えれば「『人生の意味』は研究する意味がある」と(一応は)認めていただいたということだろうが、にわかには信じられない読者も多いだろう。「人生に意味はあるのか」といった子ども染みた問題を考えたところで、それが一体何の役に立つというのか。本稿では、人生の意味を研究する意味に関する私なりの考えをまとめたのち、自身の研究テーマについてごく簡単に触れた上で、関心をもっていただけた読者に向けた参考文献を最後に紹介する。
まず、人生の意味の問題はある種の価値の問題として探究されていることを押さえておこう。価値と言っても、それは単純にお金に換算されるような価値ではない。たとえば、あなたがある程度長く働いてきたビジネスパーソンであり、仕事を辞めてやりたいこと(大学院に入る、事業を立ち上げる等)を始めようか悩んでいるとしよう。このとき、あなたの前には二つの道がある──このまま働き続ける道か、仕事を辞めてやりたいことを始める道だ。はたしてどちらに進むべきだろうか。それを決める上で、もちろんあなたはそれぞれの道を進んだ場合のお金の動きを気に掛けるだろうが、考慮するのはそれだけではないはずだ。どちらの道に進んだ方が自分らしく生きられるか、やりがいがあるのはどちらか、といった観点からもそれぞれの道を評価・比較するはずである。このように、何をすべきか、どのように生きるかを選ぶ上で、私たちはお金以外の価値も気に掛けており、人生の意味もそのような種類の価値だろう、と(全員ではないにせよ)多くの哲学者は考えている。要するに、人生の意味の哲学は価値(の一部)についての基礎研究と見なすことができるのだ。この点で、人生の意味の哲学は数学に似ているかもしれない。たとえば、数学を学んだからといって無駄のない効率的な商品の仕入れを実現できるかは分からないが、SCM担当者として仕入れシステムに組み込まれた需要予測モデルを理解・改善したいなら、数学の知見はその役に立つだろう。同様に、日常生活を送る上で役立つ場面はほとんどないとしても、「これからどのように生きるか」といった問題に直面したとき、人生の意味の哲学はその問題を考える助けになる、と私は考えている。
このように人生の意味はある種の価値として捉えられるとして、それはどのような価値なのだろうか。このことを考える上で重要なのが、スーザン・ウルフによる古典的論文「道徳的聖者」である。従来、哲学において「何をすべきか」「どのように生きるか」といった問題は道徳の問題として議論されてきた。しかし、そのように道徳ばかりを気に掛ける〈道徳的聖者 moral saints〉の人生が魅力的であるとは思われない、というのがウルフの指摘のポイントである。芸人やスポーツ選手、三つ星レストランのシェフが魅力的に思われるのは、その人たちが道徳的だからではないだろう。ウルフ以降、人生の意味は従来哲学において重視されてきた価値──具体的には道徳と幸福──とは異なる第三の価値として探究されるようになった。このことは、さきほどのビジネスパーソンの事例で考えても直観的に分かる話だろう。仕事を辞めるべきか迷うとき、あなたは「どちらの道が道徳的に正しいか」で迷うわけではない。また、単純な幸福とも異なる何かを問題にしているようにも思われる。今の仕事を続けることが幸せだとしても、あなたは退職してやりたいことを始めるか迷うことがありえるからだ。たとえ不幸になっても追求したい価値、すなわち人生の意味が、この世にはあるように思われる。このように、道徳とも幸福とも異なる価値、すなわち人生の意味の在り様を明らかにしようという潮流が、およそ1980年代頃から盛り上がってきたのである。
人生の意味を研究する意味に関する以上のまとめを読んで、納得できた読者もいれば、期待外れに思った読者もいるだろう。ここまでの議論において、何かしら人生の意味という価値が存在することは前提とされているが、そもそも人生に意味などあるのだろうか。仕事を続けようが辞めようが、宇宙から見れば私たちの活動など砂粒が振動するようなものである。あるいは、どうせ死ぬのだからどちらの道を選ぼうと行き着く先に違いはない。こうした思いに囚われ、人生に立ち竦んでしまうときに直面する実存的問題をこそ哲学は扱うべきだ、と期待する人もいるだろう。トマス・ネーゲルの論文「人生の無意味さ」以降、そのような問題も人生の意味の哲学において盛んに論じられてきた。ネーゲルによれば、一方で私たちは人生の当事者として、真剣に日々を送っているが、他方で私たちは傍観者として、日常を冷めた目で見ることができてしまう。傍観者として見れば下らないこの人生を、当事者として真剣に生きる他ないこの不条理こそ人生の無意味さだ、というわけだ。こうした議論は正しいのか、正しいとすればこの人生の無意味さに私たちはどう向き合えばよいのか、といった問題は、現在も継続的に検討されている。
以上の議論状況を踏まえた上で、ごく簡単に私自身の研究テーマにも触れておく。人生に意味があるにせよ、ないにせよ、そうした判断は私たちの感情と分かち難く結びついているように思われる。「これこそが私の生きる道だ」という判断には誇りや希望が、「人生に意味などない」という判断には悲しみや絶望が伴う。これは、人生の意味と感情との間に本質的な結びつきがあるからだ、というのが私の立場だ。このような立場は〈感情主義 sentimentalism〉と呼ばれ、デイヴィッド・ウィギンズという哲学者が「真理、発明、人生の意味」などの論文において擁護しているのだが、正当な評価を得られていない、と私は考えている(太田 2026)。この立場が人生の意味を説明する理論として説得的であると示すことが、このたびANRI人文奨学金に採択いただいた私の研究の目的である。
最後に、人生の意味の哲学に興味をもっていただけた読者に向けた参考文献を少しだけ紹介する。本サイトはANRI人文奨学金採択者の研究を社会に開くことを目的に作成されたものだが、実のところ、人生の意味の哲学の研究成果の一部はすでに社会に開かれている。3年前には、本邦をリードする哲学者たちによる入門書『人生の意味の哲学入門』が出版された。この分野の紹介から、一歩踏み込んだ論点まで、本邦を代表する専門家たちによって論じられているため、まずはこの本から入るのが良いかと思う。なお、この本は日本学術振興会科学研究費補助金による研究の成果であり、要するに税金が使われているので、(この領域に関心があるのであれば)読まなければもったいない、とも言えるかもしれない。
本稿の著者として、自身の論文にも触れておく。現在、人生の意味に関する2本の論文が公開されており、論文タイトルで検索すればどちらにも無料でアクセスできる。「人生の意味の賢明な主観主義」はウィギンズの議論を扱ったものだが、それ自体が難解なため非専門家にはやや読みにくい論文になってしまっているかもしれない。「人生が意味をもつためには、どのような物語が必要なのか」は、しばしば人生が〈物語〉に喩えられることに着目した上で、どのような物語が人生の意味と関係するのかを感情主義的な観点から分析したものである。約4万字と長いが、前者よりは読みやすいと思う。
冒頭で述べたように、哲学は直接日常で役に立つ機会は乏しいが、深く何かを考える必要が生じたとき存外頼りになる、という性質をもつように思われる。そのため、直接日常で役に立つ他分野の研究と比べ哲学研究の意味を伝えることには困難が伴うが、本稿がその一助となれば望外の喜びである。
