権威を問いの俎上に上げる:アウグスティヌスの前期・中期著作における権威概念の研究
researchmap ↗「権威」と聞いて、頭の中に浮かぶイメージはどのようなものだろうか。例えば「権威主義的体制(authoritarian regime)」という概念の用いられ方に現れているように、「権威」という言葉は一般的に硬直したトップダウン型の力として否定的に捉えられることが多い。とりわけキリスト教はヨーロッパ社会において権威の最たるものであり、近代化とはそのような宗教的権威を排除する「脱魔術化」(ヴェーバー)の過程であるという言説が広く受け入れられてきた。しかし、アメリカにおける福音派(特にdispensationalism)が中東での戦争に及ぼす影響などを見ると、現代でも宗教的権威が完全に消え去ったわけではない。また、例えば新型コロナウイルスについての陰謀論を防ぐための手立てが「信頼できる公的機関の情報を頼る」ように呼びかけることであったように、狭義の宗教に限定されない意味での権威(この場合は認識的権威)も現代社会において有用性を発揮している。我々は生活の中のすべての事象について実験や研究によって100%の確度で検証するという形で知ることはできないため、何か・誰かを信頼に値する権威として選び、確実性を多少犠牲にしてでも「それなりに正しい」ことに基づいて生きている。そして陰謀論に陥ってしまった人と話が通じなくなり関係が断絶するという事例が数おおくあるように、共通の権威を持つことは人と人を結びつける共同体の紐帯としての役割も果たすのである。したがって、現代において喫緊の問いは、いかにして権威を排除するかではなく、権威一般の必要性をどのように正当化し、個別の妥当な権威をどのように選び、それを他者との関係の中でどのように位置付けて利用するかということにある。
本研究は以上のような問題意識をもとに、古代末期のキリスト教思想家アウグスティヌス(354–430年)の研究を通して権威の概念にアプローチする。なぜそれほど昔の人を、と思われるかもしれない。第一に、アウグスティヌスは権威概念の思想史の中で重要な位置を占めている。ギリシャ語に厳密な対応する語を持たないラテン語のauctoritas(authorityの語源)を哲学の語彙として用い始めたのはキケロだったが、それを幅広い文脈で用いつつ後世に多大な影響を与えたのはアウグスティヌスだった。auctoritasの語の用例の多さはラテン語圏の初期キリスト教思想家の中でも突出しており、17世紀フランスの思想家パスカルたちもアウグスティヌスを引用しながら「信じること」と「知ること」の関係を論じている(塩川徹也『虹と秘蹟』第3章)。第二に、アウグスティヌスの生きた時代は、古代ローマの伝統的な社会の秩序が崩れつつあり、その隙間を埋めるように広まったキリスト教もまた、「真理」をかけた正統と異端の激しい抗争の只中にあった。時代はすでにある種の「ポスト・トゥルース」だったのであり、アウグスティヌスはその中で伝統的社会と異端の権威を批判・解体しつつも、同時に正統の権威を健全な仕方で根拠づける、という綱渡りをしなければならなかったのである。第三に、今から述べるように、アウグスティヌスの権威概念はその内容の面から見ても興味深い。
アウグスティヌスにおいて、権威は理性(ラテン語:ratio、英語:reason)と対比される概念であった。これは、近代科学の発展に伴う宗教理解に根ざした「信仰と理性」という対比の枠組みとの僅かな、しかし決定的なズレを示している。「信仰」は個人の内面の領域に限定されたものとして捉えられ(それゆえに「信仰の自由」を主張することができる)、当人の中に確固としてある信じることの対象(例えば「信仰箇条」)を指す事もある。それに対して、権威は他者や共同体との関わりで語られるものである。ある個人が内面でのみ信じている権威、というものはほとんど意味をなさず、むしろ多くの人々が支持していることが権威の存立基盤である。同時に、だからこそ、権威は捉え難い概念ともなる。「権力」のように法律や制度によって定めたり強制したりすることは権威についてはできず、特定の個人に帰せられた権威はしばしば融通無碍に行使される(アガンベンの『例外状態』第6章では、法律や制度が差し止められる例外状態において国家や共同体の存続を担保するものとして、権威が注目されている)。
アウグスティヌスはこのような権威概念の特色をよく理解していた。アウグスティヌスは権威の必要性を認識論のレベルから説きおこし、そこから聖書の権威や教会の権威まで幅広く論じている。そして、最初期の著作から、権威が人々の多数性(ラテン語:multitudo、英語:multitude)に根差したものであることを繰り返し指摘している。この多数性への注目は、理性主義を貫徹できる少数の人々を重視してたマニ教と対極的である。すなわち、権威の存立基盤としての多数性を重視することによって、権威は不健全なエリート主義の対極に立つことができるのである。アウグスティヌスの権威概念は、権威の捉えなおしと形成の過程に我々一人一人が「多数性(multitudo)」――多様性(diversity)や複数性(plurality)よりもラディカルな、質を一才度外視した多くの人々が共存しているという端的な現実――の一員として参加することを可能にする基盤を提供する。
本研究はアウグスティヌスの権威概念の幅広さを、①認識的権威、②テクストの権威、③共同体の権威、という相互に関連する三層の構造によって捉える。そして、アウグスティヌスの権威概念についての単著が一冊(Lütcke, K.-H. (1968). »Auctoritas« bei Augustin: Mit einer Einleitung zur römischen Vorgeschichte des Begriffs. W. Kohlhammer Verlag.)しかないという研究状況の更新を図る。そして、本研究は現代において今なお影響力を保ち続けているアウグスティヌス思想そのものについての全体的な理解を、日本国内において深めることにも貢献する。本年5月に公表された教皇レオ14世の回勅Magnifica Humanitasは、メディアにおいてはしばしばAIについての言及のみが取り上げられがちであるが、全編を貫く構図はアウグスティヌスが『神の国』で提唱した「神の国」と「地の国」の対比の現代的解釈である。現教皇はアウグスチノ修道会出身であるし、先々代教皇のベネディクト16世はアウグスティヌスの教会論について博士論文を書いているなど、今後もアウグスティヌス思想の理解がカトリック教会全体の動向と西欧の精神性の理解に不可欠である情勢は続くと見られる。他方、日本においてはアウグスティヌス研究の比較的厚い蓄積があるものの、一般に出回る書籍においては『告白』への明らかな偏重があり、アウグスティヌスの内面的な宗教性や哲学性ばかりに焦点が当たってきた。このような中では、教会論をはじめとして、アウグスティヌス個人の内面性に回収しきれない思想の要素が抜け落ちてしまう。権威の概念を通してアウグスティヌス思想を一望することを試みる本研究は、上記のような国内における注目と受容の偏りの是正に貢献する。
