日本古代の貴族支配構造

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日本古代における「貴族」とは、どのような人々か。今日の感覚では、由緒ある家柄に生まれ、華やかな生活を送る人々を思い浮かべるかもしれない。しかし、当時の「貴族」は、基本的には国家や地方の行政を担う役人、すなわち現在の国家公務員や地方公務員に相当する人々と言って良い。例外的に、特別な許可を受けた官職を持たない者も、この階層に含まれた。

「貴族」には、制度上の明確な定義がある。その基準となったのが、位階である。位階は大きく一位から八位までと初位の九段階に分かれ、さらに正・従、大・少、上・下などによって細分されていた。最上位の正一位から最下位の少初位下まで、合計三十の等級のうち、五位以上の者を「貴族」という。すなわち、出自や年齢、職業、政治的立場にかかわらず、五位以上という基準を満たせば、一律に「貴族」と位置づけられたのである。五位以上と六位以下との間には、待遇や社会的地位に大きな隔たりがある。「貴族」はまさに古代国家における特権階級であった。

位階は、個人の身分を示すだけのものではない。官庁の役職や神社などの格式にも適用され、古代社会のさまざまな場面における序列を決定していた。いわば、国家と社会の秩序を支える背骨である。本研究は、個人に与えられた位階のうち、「貴族」の入口にあたる五位に着目し、そこから五位以上の人々を統治する仕組みである位階制を再検討するものである。

位階制の基本的な枠組みは、古代国家の基本法典である律令に定められた。律令とは、刑法にあたる律と、行政法を中心とする令から構成される法体系を指す。日本の律令制は、大宝元年(701)に制定された大宝律令と、天平宝字元年(757)に施行された養老律令によって一応の完成をみた。これ以後は、基本的に養老律令を基軸として国家が運営されていく。

もっとも、律令に示された仕組みが、古代を通じて当初のまま維持されていたわけではない。そこには国家が目指す理想的な統治のあり方が示されていたものの、法の規定は必ずしも社会の実態と一致していなかった。時代が下るにつれて両者の隔たりは広がり、律令に基づく支配も次第に変容していったのである。

律令が規定した位階制は、一位から三位まで、四位・五位、六位以下という三つの層を基本とし、六位と五位の間には大きな境界があった。五位以上の位を得るには天皇の勅許が必要であり、誰もが昇ることのできる地位ではない。一般の官人にとって五位とは、長年にわたって勤務と評価を積み重ねた末、晩年になってようやく手が届くかどうかという代物であった。現在の役職に単純に置き換えることはできないが、県知事や中央省庁の次官などに相当する職に就く者のほか、有力な神社の神職などにも与えられた。

一方、有力な家に生まれた者の中には、十代で五位に到達する者もいた。例えば、かの有名な藤原道長は十五歳で五位に叙せられている。つまり五位には、低い位から長年の勤務を重ねて昇叙した官人も、家柄を背景に官人としての出発点に立ったばかりの若者も含まれていたのである。五位は、出身や年齢、経歴、職務、政治的影響力などが大きく異なる人々が混在する、きわめて多様な階層であった。

位階制を考える際、出身や経歴、政治的立場を異にする人々を、個別の事例にとどまらず「貴族」という一つの階層として捉えることが最も肝要である。しかしこの問題は古代社会の広い範囲に及ぶため、全体像を一度に明らかにすることは難しい。そこで本研究では、個々人の事情に左右されず、位階に応じて共通の基準が適用される給与制度を、分析の足掛かりとしている。

律令では、官職または位階を根拠とする二種類の給与が設けられていた。一つは、勤務状況に応じて支給される季禄である。季禄は、所定の日数を勤務し、一定の評価を受けた官人に与えられるものであり、現在の感覚に引き寄せていえば、労働の対価としての報酬に近い。

もう一つが、位階に応じて与えられる位封や位禄である。これらを受け取る要件は、官職への在任や勤務実績ではなく、一定以上の位階を持つことであった。いわば、身分に付随する給付である。対象となったのは五位以上、すなわち「貴族」であった。

位封・位禄は、特定の人物や氏族だけを対象としたものではなく、原則として同じ位階にある者へ一律の条件で支給された。その人物がどのような経歴を持ち、政権といかなる関係にあったとしても、位を保持している限り、それに応じた額を受け取ることができたのである。

したがって、位封・位禄という「貴族」に固有の給与制度を検討すれば、個人の経歴や一時的な政争に左右されることなく、国家がその階層全体をどのように位置づけ、処遇していたのかを捉えることができる。従来、位封・位禄は財政制度の一つとして扱われることが多く、天皇と「貴族」の関係という観点からは、十分に検討されてこなかった。しかし、位に応じた画一的な処遇は、国家が彼らをどのような集団として把握し、自らの支配秩序に組み込んでいたのかを示す重要な手がかりとなる。

さらに注目すべきなのは、位封・位禄のあり方が、律令の制定後に何度も変更されていることである。その改正は、単なる財政政策ではない。誰をどの集団に位置づけ、いかなる待遇を与えるのかという、国家の支配方針に直結する問題だからである。

基本設計では、一位から三位までと四位・五位との間に、給与の面でも明確な境界が設けられていた。一位から三位には、一定数の戸から徴収される税を収入とする位封が与えられ、四位・五位には、布などの現物からなる位禄が支給された。

ところが、最初の変更は、大宝令の制定とほぼ同時期にあたる大宝元年(701)に起こった。それ以前に位封を受けていた四位・五位の者は、律令の施行に伴い、支給内容を位禄へ変更されることに強く反発したのであろう。彼らにも引き続き位封が与えられることになった。これは、律令が設定した一位から三位までと四位・五位との境界が、一時的とはいえ取り払われた事例であった。

さらに慶雲二年(705)には、五位のみが本来の位禄に戻された一方、四位には引き続き位封が支給された。この改正は、当初の仕組みを部分的に復活させたものである。しかし、その結果、一位から三位までと四位・五位という法典上の区分とは異なる、一位から四位までと五位という新たな境界が生じた。

つまり、当初は一位から三位と四位・五位との間にあった給与上の境界が、いったん取り払われ、その後は四位と五位の間へ移されたのである。こうした状態が改められ、本来の形に戻るのは、百年以上を経た大同三年(808)のことであった。

これらの事実からは、法典によって明確に定められ、絶対的なものと考えられてきた位階制が、成立直後から現実社会との間で揺れ動いていたことが分かる。また、律令の制定から百年を経た時点で、人々の法に対する認識や、位階が持つ社会的な意味が、当初のまま維持されていたとは考えにくい。

それでは、なぜ位階制は動揺し、最終的に律令の示す形へと再編されたのか。これは単に、秩序が一度乱れた後、法典の規定に戻されたという問題ではない。その背景には、天皇と「貴族」との関係や、国家が彼らを統治する方向性そのものの変化があった可能性がある。実際に、この問題意識に基づいて平安時代の諸政策を再検討すると、位階制の意味や機能が変質したことを示す痕跡を複数見いだすことができる。

本研究は、律令の制定当初に確立され、古代社会を通じて維持されたと考えられてきた位階制について、その動揺と再編の実態を、位封・位禄をはじめとする周辺の諸政策から明らかにするものである。国家と天皇が理想とした支配秩序は、現実社会の中でどのように受け止められ、いかなる修正を迫られたのか。給与制度という具体的な仕組みを手がかりとして「貴族」層全体を捉えることで、天皇と「貴族」との関係、さらに日本古代の国家支配が姿を変えていく過程を描き直すことを目指している。

主要参考文献

  1. 鬼頭清明「位禄の支給額と課丁数」(『日本古代都市論序説』法政大学出版局 1977年、初出1965年)
  2. 関晃「律令貴族論」(関晃著作集編集委員会編『関晃著作集4 日本古代の国家と社会』吉川弘文館、1997年、初出1976年)
  3. 虎尾達哉「律令官人社会における二つの秩序」(『律令官人社会の研究』塙書房、2006年、初出1984年)
  4. 拙稿「位階制からみた次侍従」(『日本歴史』901、2023年6月)
  5. 「四位五位位封制と大宝禄令」(『ヒストリア』308、2025年2月)
  6. 「平安時代外位研究の一試論」(『京都府域の文化資源に関する共同研究会報告書(文化的景観編)』2026年9月)

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